Ashiya

Sakura Blooms, one year after (2005)

一年後の桜

「一年後の桜」の下には、多くの人々と共に少年の町が眠っていた。僕は転勤を機に15年ぶりに実家に帰り、ノスタルジックに町を撮影していた。そこにあの激震。撮り続けるしかなかった。

1991年、僕は久しぶりに実家に戻って来て、父から譲り受けたハッセルブラッドで町を撮り始めた。僕の生まれ育った町。大阪と神戸に挟まれた町。ちょっと溯るが、明治の終わり頃に鉄道の開発とともに阪神間第一の健康地として注目を浴び、船場の商人たちが別荘を建て始め、住宅地として急速に発展し現在のイメージができた。確かに僕が子供の頃には、先人たちの夢の跡のような黴臭い洋館が所々に残っていて、町に独特の雰囲気を醸し出していた。しかし、時代は変わりそんな洋館も姿を消していった。さらに堤防の向こうが埋め立てられ、新しい土地が出来てしまった。海岸線は姿を変え、砂浜は永遠になくなってしまった。子供の頃は堤防からの眺めは広く、真夏の太陽に照らされた釣りえさ屋が浜風とともに懐かしい。

1995年、ところが、そんな開発による喪失感を圧倒する出来事が起こってしまった。それもほんの一瞬で。爆発?!激震。壊れる音。タンスの重み。しばしの沈黙。奇妙なほど何も聞こえない。そして人が叫ぶ声。うめく声。ガスの臭い。くすぶる臭い。明るくなるにつれてわかる一変した町並み。失った物の大きさは圧倒的である。これほど強制的にリセットボタンを押されるなんて。気持ちが未整理のままカメラを持って歩くと、非難罵声に対して何も答えられない。瓦礫となった家々。壊れた門の前には花。道には毛布に包まれた遺体。何もかも崩れた埃っぽい町で、僕は途方もない無力感というものを知った。しばらく経って、あてもなく町を歩いていると、川沿いにある松林だけは在りし日の海辺の町そのままで佇んでいた。誘われるように、松林に一歩足を踏み入れると穏やかな風が吹いていた。瓦礫の町とは、明らかに違う時間の流れに身を置き僕は松とじっくり向き合い写真を撮った。

1996年、再び春を待つ季節になっていた。震災直後は圧倒的な喪失感の中で、ガスはまだか、水道はまだかと、桜どころではなかった事を思い出し、ようやく自分の頭にヒトツの風景が浮かんだ。それが「一年後の桜」と言う眺めだった。この年は鎮魂の思いが通じたのか、満開あたりから雨も少なく花冷えとなり、2週間近く咲き誇ってくれていた。まだ爪痕残る町で、更地に根をむき出しにしながらも花を咲かせるエネルギーに魅せられて、招かれるようにドンドン撮り歩いていった。

1997年、個人レベルでの復興が始まっていた。しかし、以前とは違い耐震構造の画一的な家々が立ち並ぶ。僕はゆっくり町を歩いてみた。冬の陽が翳り、太陽が顔を出すまで雲が流れるのを見上げて待った。意外と町は静かだった。

1999年、いよいよ行政の復興、さらに大きく町が変わろうとしている。しかし依然として手付かずの場所もあり、その差は開く一方で同じ出来事が出発点とは思えない。強い陽射しの中、夏草が伸びている。空はまだ広く、その上を大きな雲が流れていく。新しい町の小道を歩いてもそこは以前の路地ではなく、路地だった場所が今どこにあるのか見当もつかない。

2002年、まだ完全ではないが町はすっかり変わっていた。考えてみれば、僕が生まれ育った町も戦後復興で作られた町だった。町は破壊と再生の繰り返しであるという事を体感する。実家のある地域も、震災復興事業の換地処分公告を行い、区画整理登記も完了した。ひとまず事業としては収束し、ヒトツの節目を迎えた。

2005年、新しい町は平成時代の典型的な風景となるだろう。町並みが整い、ようやくそんな実感が湧いて来た。そして震災前の空間を埋めるような営みではないが、新しい営みが積み重なってきている。住む人は年を重ねたが、町は若返って不思議な空間となった。「一年後の桜」の下には少年の町が眠っていたが、この新しい町の下に「一年後の桜」が咲いていた町も眠っている。こうして町は、息づいていくのだろう。ずっと、これからも。だから僕は、地域の大切な資産、残したい情景、記憶の風景を撮る。